原标题:その年、私は合肥で特許を書いた—01
残業が終わると、繰り返して仕事する一日がおわった。ベッドに横になり、何もすることがなくなって、思わず私と特許との様々な記憶を思い出した。
それは、2019年の夏の卒業後のことだった。実家近くでの就職がままならず、昔のクラスメートにそそのかされて、着替えの衣服を片付けてすぐに、そいつが新しく買ったヒュンダイに乗って、急いで合肥に駆け付けた。
特許をやるということは、実に偶然だった。合肥にくる途中、故郷を離れがたく思って、高速道路の入り口で写真を撮ってウィチャットのモーメンツに投稿したら、もう一人のクラスメートが私の近況を知って、特許をやろうと勧めてくれた。私は、特許とは何なのか、どうやるのかも分からないまま、もやもやして合肥に来た。
合肥に着いてすぐに就職活動に没頭して、全部で三社からオファーをもらった:
A社:基本給は1200元で、一件の特許につき40元(社会保険は加入する)、
B社:基本給無し、一件の特許につき100元(社会保険無し)、
C社:一件の特許につき80元だが、数が30を超えた一件につき110元として、毎月さらに300元の食事手当と200元の皆勤手当がある。
私は、ひと月で30件は書けるだろうと思った。「深思熟慮」した私は、C社を選び、そしてその選択は、底なし淵への第一歩となった。
C社の社長は28歳で、2年働いてから、友達を頼って自分で小さい会社を作った。そのいかにも温厚で誠実そうな顔は、今でも恨もうにも恨めない。
面接の時に、社長は自分と同郷だとしった。彼自身もよく分からないのか、面接中は、専門性のあることにほとんど触れなかった。いずれにせよ、無経験の人を雇って、訓練してから仕事させるのだった。向こうと故郷の方言でコミュニケーションして、面接が終わり、社長は自らエレベーターホールまで送ってくれた。これはこれは、大いに感動した。そして翌日の朝、採用したという通知がきた。
出勤の初日、朝早く起きて、早朝から会社の前で社長がドアを開けるのを待っていた(今毎日のように遅刻する私は、その時何のためにそんなに早く起きるのか。たぶんその200元の皆勤手当のためだったのかもしれない)。正式に配属になり、社長はまず私たちに、CADの簡単なショートカットキーやら、上下左右の説明の仕方などの、新人研修の資料を配った。午前中読んでから、なんと午後から書かせられたのだった。
最初の案件は、草の生臭みをカットする芝刈り機だと、今も覚えている。その時は、ひょうたんを見ながらふくべを描くように、芝刈り機の上部に活性炭のフィルタを付けた(学校に通っていた数年間で、活性炭でろ過できることしか覚えられなかった)。こうしてひょうたんを見ながらふくべを描いたものを社長に見せたら、「問題ない」と言ってくれた。
ああ、これが特許なのかと、その時私は思った。
このようにぼんやりしながら一年働いた。その一年で、何が独立請求項なのか何が従属請求項なのかも分からずに、構造を全部請求項1に置いて、他の請求項でそれらの接続関係やら、xxxの直径がxxxの直径より大きいやらを書くように、むやみに書いていた。
続く…。
原作者:计件工
原作者邮箱:ipers@qq.com
原文地址:那年,我在合肥写专利
翻译者邮箱:301058400@qq.com
另:本文翻译者目前正在开设日文专利兴趣班,意在通过自己的微薄之力提升合肥同行的日文专利检索能力,获得日文专利的初步阅读、分析能力。课程完全免费,为方便线下活动,仅招收目前在合肥的同行,有意者可联系翻译者或本人邮箱(第1期20人小班已经募集完毕,不久将会募集第2期)。
本篇文章来源于微信公众号: 死肥宅
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